昭和五十六年一月十六日 朝の御理解


御理解第七十四節
「かわいいと思う心が神心じゃ。」


 お道の信心を極めてまいります、その焦点であり願目だと思うです。神心。仏教では慈悲の心を説きます。キリスト教は愛の心を説きます。お道の信心でも、真、真心と申します。ですから、そういう愛とか慈悲とか、真、真心というような心が消化してまいります。浄化されたり、いわゆる清められたり、それが神心だと思うです。だから、愛の心も慈悲の心もやはり真、真心も尽くした上に尽くす。もう兎に角、これで良いという事はない。そういう、いうならば頂き方をもって神心を目指すのです。
 いうならば天地金乃神様と本当の意味に於いての交流というのは、やはり天地の親神様が水であるならば、私共も水の心にならなければ一つになれません。神様の心から発せる心、神心。その神心が、私共がいよいよ清められた上にも清めさせて頂いて真だ、真心だ、それこそ慈悲だ、愛だという内容を辿らせて頂き乍ら神心へ向かって進んでいく。神心になるに従って、神様とのいうならば密着したというか、いわゆる信心一体というような事になってくるんです。
 結局神心を目指させて頂いて信心。いわゆる生神金光大神のまあ境地を目指させて頂いて信心の稽古をするというても、だからいい訳ですね。ですから、もう本当に、まあピンからキリまである訳です、その心の状態というものは。
 そういうまあ自分で自分の心がまつれるような、又は拝めるような心の状態を神心。しかもそれも限りがない神心に向かって精進してゆく。その修業が、いわば日々の心行であり、又は家業の行であり、只今こうして寒修行、その信心の修行をさせて頂くのですから、様々な願い事問題ございますが、その願い事問題を通して、いかに神心にならせて頂くか。いうならばおかげの受け物を作らせて頂くかという事になる訳。
 昨日は富久信会でございました。それから昼は成人祭がございました。若先生が奉仕致しましたが、私は、ここ御結界について色々頂いた事でしたけれども、いつも成人祭を頂かれる方達に、私が何か一筆書いて、まあ短冊か何かに書いて差し上げるのです。それで昨日もどういう事を書いてあげようかなあと思わせて頂いてから、私が三代金光様からいろいろ色紙とか、いろんな物を頂いておるその中で一番身近に有難いといつも思うて拝ませて頂いておったのは、三代金光様が「信心の稽古」と書いて下さっておる、それでした。
 信心の稽古。それを見るたんびに、私は果たして信心の稽古の心があるかどうか。又は苦しい時やら淋しい時やら様々にありますけれども、そういう苦しい事やら様々な心の状態、その心を通して信心の稽古に取り組んでおるかどうかと、こう思う訳ですね。
 もうこの信心の稽古と、もうこりゃまあ沢山使う言葉ですけれども、このお書下げ程私の心にいろいろと教えて頂いた支えになった御教えは無いように思います。
 信心の稽古。どんなに腹の立つような問題がありましても、その腹の立つような問題で信心の稽古をしたらよいのだと神様が言うて下さっておるような気がするんです。これだと思いましたから、皆に信心の稽古と短冊に書いて差し上げたような事でしたけれども。いうなら私共がいよいよ真心だ真心だ。又は、なら神心を目指すという事は、そういう様々な問題を信心の稽古の材料としていく生き方から、いうならば神愛を悟る事が出来る。神様の心が分かる事が出来る。その神様の心にそい奉ろうとする心、それが神心を目指してゆくのです。
 稽古なしに修行なしに、いうならば神心になるという事は絶対にでけません。親切心が強いとか、愛の心が強いとか、慈悲心が強いとか言うても、それを持っておるだけでは神心ではないです。神心へのその過程に様々な慈悲心も愛の心も真も真心も使わなければならんけれども、限りなくそれが使われて、限りなくいうなら信心の稽古に焦点が置かれる時に、何時の間にかそれこそ自分の心の中から我情が取れ我欲が取れて、それこそ我が身は神徳の中に生かされてあるという実感は神様と一体になっている心の状態です。
 我が身は神徳の中に生かされてあるという分かる事はすぐに分かっても実感として神愛の中に神様の懐の中に抱き抱えられておる、その実感というものはね、神徳の中に生かされておる実感というものは、そういう稽古の中からしか生まれてこないと思う。
 昨日富久信会で、始めに私、皆さんに、いかに合楽理念をもって、商売は合楽理念をもってする他はないのですけども、その根底になるものは、例えば御取次を頂いて仕入れさせて頂きます。御取次を頂いて集金に参ります。御取次を頂いて何々の商いをさせてもらいますと言えばよいかと言うのじゃない。その根底になるものは、四神様のお言葉の中、客殿に扇面、扇の額に入れてあるのがございますね。客殿にあります。ひらながで今の三代金光様、四代金光様が、あの書いておられます。四神様のお言葉として。そのお言葉の中に、「目に見える所を大切にするけれども、目に見えない所を粗末にします。」という意味の言葉が書いてございます。
 目に見える所だけは大切にするけれども、目に見えない所を粗末にします。それでは、もう信心になりません。いかに合楽理念をマスタ-したのと、どうのと言うても信心のいうならば一番大切な所は神様と交流する程しの心ですから、神様が見ておいでの世界に生きるという事。人間の目には、なら見える所だけを大切にすれば、それでいかにも立派のように見えるけれども、目に見えない所を大切にしていかねばならない。目に見える所を大切にする以上に、目に見えない所を大切にするというような生き方の人の上に、私はいやが上にも神心が募ってくる。いやが上にもお徳を受けていく。神様の御信用を受けていく事が出来るというふうに思います。
 だからこれは非常に巾が広いですけれども、昨日私は、それこそ初めて聞いたというような話を昨日聞かせてもらいました。最後に富久信会の会長であります佐田さんが発表しとられましたが、今日の会の始めに親先生が目に見える所だけを大切にして目に見えない所を粗末にするという、そういう修行というのが、只今寒修行があっとりますが、寒修行に毎朝参るという事が修行じゃない。寒修行にお参りする前の日こそ、前の晩こそが修行だと言っとられます。私はそれを聞いて、はあ、ある意味でびっくりしました。
 成程信心は高めてゆくと、本当に素晴らしい事が分かるもんだなあと思う。寒修行に朝参りをしてくるという事は、さほど修行とも思う程し難しい事ではありませんち。もう私は十数年間いうなら家族あげて、奥さんと今は二人で毎朝朝参りがありますけれども、それはさほどの修行じゃないち言うとられるです。その前の日こそが修行だと。例えば夜更かしをするまいとか、友達から飲みに誘われた時に、それはすきっと断って、断るとかいうなら明日のいうならば朝の御祈念にお参りする事の為の雰囲気が、それがその楽にでけれる事の為に前の日から心を使う、その事が修行だと。
 これが今日親先生が言われた目に見えない所の修行じゃないかと言われるんです。だからこうお参りして来とる、これは目に見える修行ですよね。だからそれよりかもっと大事にしなけりゃならないのは目に見えない前の晩、前の日からその事に心掛けておくという事が心行でもあると同時に修行だというふうに言われております。もう前の晩の時間、おそまで起きておってです、そして朝参りをするというもんだから、朝参りがしるしゅうなってくるんだと、こう言うのです。
 私はそれを聞いて、成程これも、成程目に見える所ばかりを、いうならお参りだけを立派に成し遂げてもです、そのお参りが有難く、お参りが出来る修行とも思われん当然の事、当たり前の事のようにしてお参りする事の為に前の晩の修行がいるんだと、こう言うんです。
 いうなら目に見えない所を大切に、成程おかげを頂く人は違うなというふうに昨夜思った事でございましたけどね。そういう修行をさせて頂き乍ら、私はこの金光教でいう神心というものを目指していかねばならないというふうに思います。どうぞ。